認知症の母の介護で今思うこと。亡くなって十年以上経ち、振り返れるようになりました
〈クウネル・サロン〉プレミアムメンバーで、整理収納アドバイザーの青木美詠子さん。10年ほど前に経験した認知症の母の介護について、いま改めて思うことを綴ってくださいました。
認知症の母が残してくれたメッセージ
トップの写真は認知症になった母から、当時もらった封筒です。母は10年程前に亡くなったので、大切な思い出。
文面は「美詠子へ 本当によく働いてくれてありがとう どんなにか疲れたことでしょう」。中には数万円が。母は年金暮らしでしたが、帰省して掃除などした私へお礼のつもりです。その後も何度ももらっては断り、こっそり財布に返していましたが、結婚して近所に住む弟に言うと、「もらっておけば」と言われ、一度だけもらいました。
この頃は、すぐ忘れても、まだ会話らしきものはできていました(メモしていたので、見返せば時期もわかるかもしれませんが、少し見ただけで泣いてしまうのでやめました)。
定期的に帰省しサポート
認知症の発症は、17年程前。私が20代の頃に父が亡くなり、母は山口県の実家にひとり暮らしでした。ある時、弟から「重要なことを忘れている」と聞き、帰省した私と弟で病院に連れていき、診断がくだりました。
私は東京で働き、結婚もしていたので数ヶ月に一度、数日間だけ帰り、手続きに立ち会ったり、猛スピードで掃除や洗濯、買い物、料理のつくり置きなどを。少し遠くに住む姉も時々同じようにしてくれていました。
少しずつ症状は進んで……
母は徐々に買い物で冷蔵庫に同じもの(私達が好きだったソーセージなど)をためたりしていました。だんだん料理もできなくなり、剥いた里芋がずっと水に浸かっていたりも。その後、デイサービス、ショートステイなどを利用していきました。
詳しく書けませんが、最後の頃には大変なことも数々。朝起きたら母がおらず。昔よく行った朝市まで歩いたようで、通勤途中の弟が見つけ、私が連れ帰りました。また電車で二駅も離れた場所で警察に保護され、深夜に弟が迎えに行ったことも(最後は弟がやりきれない思いで、外からの鍵をつけました)。「なんでこんなことに」と東京に帰る電車で、ひとり涙が止まらなかったこともあります。
離れて暮らす家族の介護のかたち
3年経ったあたりで限界を感じ、デイサービスと同じ場所の施設へ(金銭的にも大変だった私の帰省は減少)。そこに3年程お世話になり、最後は83歳で肺炎で亡くなりました。
ずっとそばで懸命に世話をしてくれた弟夫婦には、感謝してもしきれません。私などは遠くにいて、介護したとも言えませんが、帰った時は時間との戦いで倒れそうなくらい働いたので、最低限のことはできたのかなとも思います。
夫婦で帰省した時は、夫もいろいろ手伝ってくれました。母とは仲良しで、会話できる時代はお喋りしてくれ、母がよく笑っていたのも、いい思い出です。
印象的な2冊の本
最近この原稿のために、書籍を購入してみました。左の漫画『消えていく家族の顔』は以前、ネット広告で現れ、涙ぐんで買えなかったもの。
作者は、現役ヘルパーでもある漫画家。いろんな認知症患者の心理が想像力を働かせて描かれています。私が泣いたのは、表紙の女性の話。母に面影も似ており、当時の行動もきっと家族を思ってでは、と涙があふれました。
右『
は、認知症心理学者の本。「こんな心理だから、こう言っても聞かず、こう言い換えては?」という例が書かれています。私も思いあたる発言が数々。でも当時は「言えば少しはわかる。言わないと」と必死だったのです。でも途中から「怒っても理解できず、ただ怖いという感情だけが残る。強く正すのは双方に得策ではない」と知りました。
頭ではそうわかっても、至難の業。けれど1割でも2割でも違う言葉に換えられたら、お互いにいいのでしょう。今思うと話せる時には、少しでもいい思い出を残したかったです。
現在、認知症のご家族と暮らす方、本当に大変だと思います。きれいごとではすまされませんが、認知症の方の心はとても不安なのだと思います。残った感情で、私に封筒の文字を書いてくれた母に感謝します。そして認知症のどの方も、そんな行動はしてくれなくとも、きっと心の内には、家族への感謝の気持ちが灯っているのだと思うのです。
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この記事の
プレミアムメンバー
青木美詠子
1963年生まれ。整理収納アドバイザーの資格をもち、不定期にさまざまな自宅セミナーを開催。個人へのお片付けサービスも行う。著書に『あおきみさんち、家を買う。』(マイナビ出版)など。長年実践する「冷えとり」に関する著書も。
https://www.aokimi.com/
Instagram:@aokimieko1616