新しく〈クウネル・サロン〉プレミアムメンバーに加入となった伊藤千桃さん。『クウネル』本誌にも何度か登場し、そのたおやかな佇まいと、自然のなかでお金をかけずに豊かに暮らす姿勢が多くの読者の共感を得ています。そんな伊藤さんの波乱万丈な人生について、まずは伺いました。
『桃花源(とうかげん)』の屋号で、自宅を拠点にケータリングや、B&Bを営む伊藤千桃さん。インタビューを何度かしていますが、お話を伺う度に「ええー!」と、驚くことばかり。オープンになんでも話してくださるのですが、その内容が毎度あまりにもドラマティックで、目を丸くしてしまう筆者です。驚きのストーリーをニコニコと、さもないことのように話す千桃さんはただものではない!そんな千桃さんの胆の座った生き方を、本サイトで少しずつご紹介してまいります。まずは生まれたときの話から……。
「生まれたのはいまから70年前、インドネシアのジャカルタです。日本人の母とインドネシア人の父の間に生まれました。といっても、インドネシアにいたのはほんの少し。インドネシアになじめなかった母は、2歳の私を連れて日本に帰国したのだそうです」
だから、父の記憶は全くないという千桃さん。かといって、母の記憶もほとんどありません。というのは、子育てがうまくできず若かった母はインドネシア大使館に幼い千桃さんを置き去りにしたまま、いなくなってしまったというではありませんか!
このことが当時の新聞に載り、とある女性が引き取り手として名乗りをあげ、養母となってくれました。
「養母は誰も近寄れないほど独特な雰囲気の人で、とにかくみんなから恐れられていました。私も最後まで敬語で話していたものです。会社を経営していて羽振りもよく、私は子守りの女性をつけてもらい、ごはんをつくってもらったり、遊んでもらったりという記憶はまずなくて。あまり養母に育てられたという感じではなかったですね」
しかし、調子のよかった養母の事業もあるときから立ち行かなくなり……。お金で苦労する様子を近くで見ていました。「お金は無いなら無いで何とかなるもんよ」が口癖の千桃さんですが、それは、どん底を経験しているからこその境地なのだといいます。
「ミス日本」になったのは1972年のこと。第五回ミス日本コンテストに養母が応募し、見事グランプリへと輝きました。それからの1年間は「ミス日本」として、世界中を訪問。海外旅行が珍しかった当時、貴重な体験をしたのだそうです。その前には、なんと映画デビューもしている千桃さん。1969年に行われた東宝映画『華麗なる闘い』のオーディションに養母が応募し、最終選考の7人に残り、映画に出演。ただ、自分に自信が持てなかったという千桃さん、女優としてのお仕事はこのとき一度限りで辞めたのだそうです。あのとき、女優続行を決断していたら、全く別の人生を歩んでいたかもしれません。