【エッセイ】脚本家・映画監督の寒竹ゆりさん「ラヴストーリーと、 ジャガイモの細胞分離性について」

脚本家・映画監督の寒竹ゆりさん。『クウネル』本誌1月号「あの人が薦めてくれた映画」のために書き下ろしていただいた素敵なエッセイ「ラヴストーリーと、 ジャガイモの細胞分離性について」をお届けします。

PROFILE

寒竹ゆり/かんちくゆり

脚本家・映画監督。1982年東京都生まれ。日本大学芸術学部映画学科在学中、ラジオドラマで脚本家デビュー。2009年『天使の恋』で初の長編映画を監督。2013年『ケランハンパン』で第23回ゆうばり国際ファンタスティック映画祭審査員特別賞を受賞。

ラヴストーリーと、ジャガイモの細胞分離性について

ロマンティックな恋愛映画についてお話する前に、おいしいマッシュト・ポテトについて少し考えてみたいと思います。言うまでもなくマッシュト・ポテトはジャガイモ料理の一種です。肉や魚、豆料理などに添えられるありふれた付け合せながら、かのジョエル・ロブションが「三ツ星を獲れたのは、ジャガイモのピュレとグリーンサラダのおかげ」と語ったというくらい、シンプルながらも奥の深い料理だといえます。

『First Love初恋』のプロデューサーである八尾女史は身長150センチ前後(推定)の小柄で快活な関西人で、わたしと違って声が大きく、助監督の一番下っ端のスタッフ並みかそれ以上にちょこまかとよく立ち働き、子供が好む食べ物全般、とりわけ芋料理に目がありません。わたしが(ごくたまに)脚本の〆切をぶっちぎってにっちもさっちもいかなくなっていますと、東京から八ヶ岳の仕事場まで愛車のフィアットを飛ばして様子を見に(という名の督促に)やってきます。八尾さんが来てくれたからといって、書けないものは書けないのであり、ポケットを叩いたってひっくり返したってお見せできるものは出てきません。そんな時はまず掛け心地の良い椅子に坐らせて、冷えたグラスとビール、それにあつあつのマッシュト・ポテト(或いはフレンチフライ)を供してお茶を濁します。フィアットが中央道双葉サービスエリアを過ぎたあたりで、庭からむしったローズマリーとジャガイモを鍋に投入し水から火にかけますと、到着する時分にちょうどよい塩梅に茹で上がります。

ジャガイモは洗顔後の化粧水と同様に、可及的速やかにつぶさねばなりません。冷めると細胞膜が壊れ、粘りが強く出てしまうからです。これはジャガイモの細胞分離性と、細胞同士をくっつけるペクチンの性質によるものです。ぺっとりとしたマッシュト・ポテトの舌触りほど厭わしいものはありません。一度木べらを握ったら、調理人はただひたすらに目の前のジャガイモと向き合い、塩とバターと温めた牛乳を撹拌し続ける義務を負うのです。

ジャガイモの品種と熟成度にも注視すべきでしょう。一般的には男爵芋などが推奨されますが、よりクリーミーなコクを求め、わたしは完熟したメークイン系を選びます。理屈を知ったら時にセオリーを疑ってみることも肝要です。こうして官能的で尤なるマッシュト・ポテトが完成します。なんでもない料理も手間をかけることで、不機嫌だったプロデューサーが多少優しくなりますし、どうでもいい世間話からあんなにも苦しんだアイデアがすんなりと浮かぶことさえあるから不思議です。

さて、これは映画についてのエッセイです。そんなふうに旨いマッシュト・ポテトとそうでもないのとがあるように、映画にもまずい映画とそうではないものとが存在します。こと恋愛映画において、ジャガイモの細胞分離性と同じくらい重要なのが、主人公ふたりの出会いのシーンと恋の取っ掛かりのアイデアです。脚本家は物語におけるペクチン的な何かを、血眼になって探します。万一我々がこの努力を怠ると、観客の皆さんにその後の退屈でおぞましい二時間をプレゼントすることになってしまうからです。

エルンスト・ルビッチの『青髭八人目の妻』(’38)では、アメリカ人の実業家でパジャマの上だけを買おうとするゲイリー・クーパーと、下だけを買って行く没落貴族の娘クローデット・コルベールが出会います。パジャマの上下を分かち合うふたりの恋の行方という、かくも洒落た85年前のプロットは、デパートで一組しかないカシミアの手袋を取り合うことで男女が出会う『セレンディピティ』(’01)等の作品におそらく受け継がれていますし、わたし自身もまた映画に恋して憧れた若き日からずっとこのルビッチ・タッチに焦がれています。『生活の設計』(’33)では、広告代理店に勤務するミリアム・ホプキンスが、乗り合わせた列車の座席で寝ていた劇作家志望のフレドリック・マーチと画家志望のゲイリー・クーパーのスケッチを始めます。台詞のないこの冒頭三分間が、その後の三角関係の恋模様を予感させます。優れた出会いのシーンは、その後の展開に何らかの兆しを与えてくれるものです。

『私の頭の中の消しゴム』(’04)はそのことを示す好例でした。社長令嬢のソン・イェジンはコンビニで建設作業員のチョン・ウソンに出会い、些細な思い違いから彼の缶コーラを奪って飲み干します。これはイェジンの健忘症の兆候を仄めかす描写でもあり、そのこと自体が物語全体の枷とラストの伏線になっている点に唸らされます。彼女の物忘れがなければ彼らは出会えず、哀しい宿命を負うこともなかったという人生の皮肉と苦さが涙を誘います。

出会いの場作りの巧みさにおいて、『ノッティングヒルの恋人』(’99)の脚本家・リチャード・カーティス抜きには語れません。世の中には飲み物をこぼして相手の服を汚してしまうことから始まる恋物語は数多あれど、ハリウッドスターと冴えない書店主のこの恋の幕開けほど巧く機能している作品はほかにない気がします。のちの監督作『アバウト・タイム ~愛おしい時間について~』(’13)では、暗闇レストランでの男女の出会いという秀逸なシチュエーションによってアップデートされています。

『青髭八人目の妻』(1938年)エルンスト・ルビッチ監督

「脚本には弟子のビリー・ワイルダーが参加、冒頭のアイデアは師匠からの宿題に対するこれ以上ない答えだと思います。人間の業や愚かしさを肯定しながら、どこまでもエレガントに笑わせるその姿勢に憧れます」。

Photo:Aflo

『アバウト・タイム 〜愛おしい時間について〜』(2013年)リチャード・カーティス監督

「現役の脚本家で最も尊敬する人のひとり。タイムリープという100万回こすられてきたネタに、まだこんな語り口があったかと思わされます。John Guleserianという気鋭の撮影監督と組んで、新しいルックを作っているところにも彼のセンスを感じます」。

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拙作『First Love 初恋』(’22)では、電車の中で也英という少女に一目惚れした晴道が、読書しながらうたた寝している彼女の本に、栞代わりの切符を挟むシーンが物語の発端となっています。このアイデアはJALのCAさんが就寝中の乗客の本に折鶴を挟んだというどこかで聞いたエピソードがヒントになりました。結果的に切符を失くした晴道は駅員に捕まってしまいますが、晴道という男の也英への献身と犠牲的精神が出会いの瞬間から示唆され、その行動原理は大人になっても貫かれます。

物語開始時点でふたりが既知の間柄であれば、第一幕の早い段階で彼らの関係性とバックグラウンドを明らかにする必要があります。決して全てを説明するのではなく、行動を追うことで観客にそれ以外の部分を感じさせる手際が作家の腕の見せ所です。ジャガイモは熱いうちに、映画は観客の気が変わらぬうちに素早く処理するのが鉄則です。このことを教えてくれたのは、中学の図書館で読んだニール・サイモンの戯曲集でした。映画化された『裸足で散歩』(’67)では、エレベーターのないアパートの五階という場面設定の妙により、新婚夫婦の異なる価値観の対立を浮かび上がらせています。

シナリオが小説と最も異なるのは、人が人を好きになるという情感をいかに行為で表すか?に重きが置かれる点です。大切なことはいつだって隠れていて、人は意図していることをそのまま口に出す(出せる)わけではないからです。それが恋愛感情にまつわるアレコレならばなおのこと。好きな相手の前ではやせ我慢をしたり、裏腹なことを言ってしまうのが人間です。そして良い台詞とは往々にして嘘つきなものです。

ではいかにして登場人物の内なる声を映像表現として表出させるか?ここで有効になるのが小道具とモチーフです。

ビリー・ワイルダーは『昼下りの情事』(’57)で、音楽学生のオードリー・ヘップバーンの恋心を冷蔵庫の中で萎れたカーネーションで表しました。このカーネーションをほかでもない彼女の父親に発見させることで、ラストシーンにおける父親の表情に説得力を与えています。『生活の設計』のタイプライターや、『裸足で散歩』の天窓の穴、裸足で冬のセントラルパークを散歩するという行為それ自体もまた、登場人物の心情の変化や物語全体のテーマを台詞以上に雄弁に語ってくれています。

Netflixシリーズ『First Love 初恋』(2022年)寒竹ゆり監督

「原稿を書きながら、ここに挙げた作品から受けた影響をそこかしこに感じています(自分だけかもしれませんが……)。若い頃にしびれた映画表現のカッコ良さやはかりしれなさに近づきたくて、今も物書きの端くれとして右往左往しているのだと思います」。

Netflixにて独占配信中

『裸足で散歩』(1967年) ジーン・サックス監督

「舞台に現れる前もはけた後も登場人物の人生は続いていて、そのことを作家は常に心得ていなければならないということを教えてくれる作品。登場人物の退場と再登場とそのタイミングの全てに意味があり、磨かれた台詞とともに見事な作劇です」。

Photo:Aflo

『昼下りの情事』(1957年) ビリー・ワイルダー監督

「わたしが最初に監督ではなく脚本家を目指そうと思ったのはワイルダーが脚本家出身だったからでした。観客を楽しませるために練り上げた脚本だけが観客の前に差し出される権利がある、といつも言われている気がします」。

Photo:Aflo

最後に、「映像が語る」という点において優れた二本の映画をご紹介します。キャロル・リードの『フォロー・ミー』(’72)は、妻のミア・ファローの浮気を疑った夫のマイケル・ジェイストンが探偵に妻を尾行させることから始まる物語です。夫婦のすれ違いと修復を、見つめるという行為によって見せた、映画の魅力がつまった一作です。

また、イ・チャンドンの『オアシス』(’02)における壁のタペストリーの使い方と、それが伏線となるソル・ギョングによるラストシーンの掛け値なしの愛情表現は、まさに「目で見せる」映画の力強さを教えてくれます。

有史以来、人類は途方もない数の愛の物語を創出し続けてきましたが、実のところストーリーテリングのパターンはそう多くはありません。「ロミオとジュリエット型」とか「シンデレラ型」とか研究者によってまちまちですが、23だったか36だったか、確かそんなふうに体系化されていたはずです。よく「ベタだけど面白い」なんて感想をおっしゃる方がいますが、それは決して悪いことではありません。物語とはそもそもすべからくベタなものであり、『ノッティングヒルの恋人』が明らかに名作『ローマの休日』(53)を下敷きにしているように、名作が名作たる所以はストーリーそのものではないのです。だからこそ、その作品固有のひらめきのようなものが不可欠になるのではないでしょうか。そしてベタほど難しいものはなく、腕がいるものだと年々思い知らされます。

目に見えないものが味を決め、些事によって記憶される。もしも映画を観た後に「面白かった」以外の言葉にしづらい感想をどうにかして言葉にしたいと思っておられるすてきな読者の方がいらっしゃれば、ぜひともおいしいマッシュト・ポテトを作る工程を思い浮かべてみてください。そこには、ジャガイモを引き立てるペッパーやひとつまみの塩、調理法や器選び、大切な方をおもてなしするための見えない心配りがきっと隠されているはずです。

『フォロー・ミー』(1972年) キャロル・リード監督

「好きな人とアイスクリームを食べたら、それはデートなんだと思います。ふたりだけがわかる特別な何かを見つけて、それを分け合えた時のあふれる喜びが描かれた大好きな作品。『第三の男』のキャロル・リードの遺作がこんなにも自由でささやかな作品だということがうれしい」。

Photo:Aflo

『オアシス』(2002年) イ・チャンドン監督

「イ・チャンドンは日常の中にうつくしさを見出す天才であり、それはいつも残酷で厳しいものと隣り合わせでもあります。日常と詩的な幻想シーンのコントラストが眩しく、その境界の果たしてどちらが真の現実で正しいことなのか?優れたファンタジーを観るとその概念を揺さぶられます」。

©2002 Cineclick Asia All Rights Reserved. U-NEXTで配信中

『クウネル』1月号掲載 

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『クウネル』No.124掲載

あの人が、薦めてくれた映画

  • 発売日 : 2023年11月20日
  • 価格 : 980円 (税込)

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