【大平一枝さん・ただしい暮らし、なんてなかった。vol.3】たった2センチの前髪カットで分かった50代からのおしゃれ。

大平一枝さんポートレート

朝日新聞デジタル『&W』で台所の連載を長く続けるほか、著書も多い文筆家の大平一枝さん。2021年12月に新刊『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)を上梓しました。

2011年に刊行された『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)の続篇的なこの本は、各エッセイの最後に「かつて」「いま」といった記述があるのが印象的。
50代となり、歳を重ねたからこそ、そして、大平さんならではの実体験を基に紡ぎ出される言葉は、一字一句、心に刺さるものばかりです。

著書には51のエッセイが収められていますが、その一部をご紹介。シリーズの最後には、大平さんの特別インタビューも掲載予定です。どうぞお楽しみに。


 長年通っている美容室を替えるのは、案外勇気がいる。私は五十代の初め、十五年ぶりに替えた。

 きっかけは、たまたま耳にした仕事仲間の噂話であった。本棚の選書がいいという。美容室なのに本棚が充実しているとは気になる。腕もよく、少々風変わりな切り方をするらしい。行こうか行くまいか、直前まで自分でも驚くほど迷った。十五年、同じ店に通っていた安心感をなかなか手放せなかったのだ。

 しかし、振り返ればいつも同じメイク、同じヘアスタイルである。長い間、自分にかまったり、身ぎれいにすることがあとまわしになっていた。仕事と子育てにいっぱいいっぱいで、それどころではなかったのが正直なところだ。

 年齢も肌の様子も好みも変わっていくのに、メイクとヘアスタイルがずっと同じというのは寂しい。おしゃれをもっと楽しみたいと素直に思った。娘が高校生になったころ、やっと扉を押したのだった。

 白い小さな一軒家で、窓から明るい光が差し込む。月曜の昼下がり。当日の急な予約にもかかわらず、オーナーに穏やかな笑顔で出迎えられた。

「今日はどんなふうに」
「えっと、おまかせします」
「いいんですか?」
「はい。ちょっと、自分を変えてみたいんで」
「わかりました。では、ここに立ってみてください」

 等身大の鏡の前に立つと、やおら彼は前髪を眉毛の二センチ上くらいでぱっつんと切り落とした。前を一直線に切るのは中学校以来か。店に入って数分後の出来事にたじろぐ。

大平一枝 ピアス  ただしい暮らし、なんてなかった。
以前はロングにしていたことが多かったけれど、ここ数年はずっと短いスタイルに。ピアスを選ぶことも楽しみのひとつになったのだとか。写真のピアスは娘がプレゼントしてくれたもの。

 彼は、「バストアップの半身鏡の前で切ると、全体のバランスがわからない。人によって体型も雰囲気も違う。髪は、絵のように全身のバランスを見ながら切るべきです」と語った。そのため時折、店に画家を招き美容師全員でデッサンを学んでいるらしい。本棚にはさまざまな画集や写真集が並んでいた。

 なるほど、噂通りちょっと変わった美容室だ。
 椅子に座ってカットとブローをすべて終えたあと、彼は言った。
「絶対この前髪のほうがいいです。大平さんの意志が前面に出る感じ。きっとメイクも洋服も変わりますよ、これから」

 それから通い続けている。予言通り、まずメイクが変わった。ぱっつんの前髪に負けないよう、目にポイントを置くようになり、そのバランスで、チークや口紅はやわらかめの色合いに。メイクアイテムをひとつずつ変えていった。

大平一枝 メイク道具
以前なら選ばないようなポイントカラーを手に取るようになった。ヘアもメイクもファッションも、新しい自分を知ることができるのがうれしいと大平さん。

「雰囲気が変わりましたね」という周囲の反応に気を良くして、ファッションにも興味が湧く。あらためてクローゼットを見直すと、愛用のブランドが自分には似合わなくなっていた。選ぶ服が変わり、バッグや靴が変わり、アクセサリーも冒険するようになる。おそらく、それまでのメイクも前髪に合う合わない以前から、本当は似合わなくなっていたのかもしれない。毎日つけるものほど、ズレに気づきにくいものだ。

 いまは、いろんなことにチャレンジすることが楽しい。赤いワンピースも、真っ青のパンプスも、大ぶりのピアスも少し前の私なら選んでいないアイテムだ。

 脇目も振らず全速力で人生のトラックを走ってきた自分を、いたわりたくなった。家族ファーストでやってきた。これからはもう少し自分自身にかまってあげよう。そんな感覚が芽生えた。

 いくつになってもおしゃれは冒険するほうが楽しいし、自分を変えることに臆病にならないほうが、人生はずっとおもしろい。
十代のころは変化のおもしろさをわかっていたはずなのに、いつしか守りに入っていた。新しいことがすべていいとは言わないが、「いつも同じ」にはちゃんと疑問を持っていたい。それ、本当にいまの自分に似合っているか?似合っていたのは、少し前の自分じゃないかと。


<かつて> 新しいものを試すのが好きだった。

<いま> 変化より安心を選びがちに。変えたらヘアメイクもファッションもぐんと楽しくなった。


※本記事は『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)からの抜粋です。
四章 「自分を養生する」より「前髪を二センチ切って見えた世界」

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再構成/結城 歩  著者撮影/安部まゆみ

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