【大平一枝さん・ただしい暮らし、なんてなかった。vol.1】50代になって気づいた人間関係。絡まっていた糸をほどいてくれた友人の手作りマスク。

大平一枝さんポートレート

朝日新聞デジタル『&W』で台所の連載を長く続けるほか、著書も多い文筆家の大平一枝さん。2021年12月に新刊『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)を上梓しました。

2011年に刊行された『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)の続篇的なこの本は、各エッセイの最後に「かつて」「いま」といった記述があるのが印象的。
50代となり、歳を重ねたからこそ、そして、大平さんならではの実体験を基に紡ぎ出される言葉は、一字一句、心に刺さるものばかりです。

著書には51のエッセイが収められていますが、その一部をご紹介。シリーズの最後には、大平さんの特別インタビューも掲載予定です。どうぞお楽しみに。


 スマホの携帯番号宛てに「元気?住所教えて」と一行、ショートメールが来た。私のアドレスやLINEのIDを知らない人らしい。こちらにも番号登録がないので差出人がわからず、いたずらかと訝(いぶか)しく思った。
「失礼ですが、どなたでしょうか?」
「ごめん!Hだよ。マスクをいっぱい作ったからよかったら送ろうと思って」

 小中学校時代の親友だ。
 彼女は地元長野で保育士をしている。私は父の転勤が多く、彼女と暮らした町には五年しかいなかった。だが妙に馬が合い、その後も付き合いが続いて帰省するたびに落ち合った。結婚後もしばらくは東京と長野、互いの家の行き来があった。
 しかし、彼女は三人の母となり、義父母と同居しながら仕事を続け、私も出産と同時にフリーになった三十代半ばから会うのがままならなくなった。

 女の三十代は故郷の友とどうしても疎遠になりがちだ。小さな子どもを抱えて会いに行く足がなく(私は運転免許を持っていない)、相手も育児と仕事に忙しいなか同居生活で客を受け入れる余裕がない。
 唯一つながっていた年賀状も、彼女から喪中はがきをもらった翌年私が転居したあたりから途絶えた。相次いで親族を亡くし元気がない、地元の集まりにも来なくなったと聞き、線香をあげに行きたいと電話をしたが「その気持ちだけで十分」と静かに断られた。話したのはそれが最後だ。これ以上追うまい。子育てが一段落したらまた会えるさ。そう言い聞かせ、日々は流れた。

 前述のメールが届いたのは、十五年ほど経った二〇二〇年四月。コロナ禍でマスクが手に入らず、家族全員弱り果てていた矢先だった。
 メールのラリーが続く。「きっと困ってるんじゃないかなと思って」。昔から裁縫や美術が得意で、器用でセンスがよかった。家庭科の宿題はどれだけ手伝ってもらったかわからない。パジャマの課題などほとんど彼女が縫ってくれた。次々よみがえる記憶を綴った 。

大平一枝 リビング花
大勢の人がそうだったのと同様に、自宅にいる時間が長くなった。そんななかで、心を落ち着かせてくれた存在のひとつが花を飾ることだったそう。毎日、一輪を店頭で受け取れるサブスクリプションを利用している。

「よく覚えてるね」と笑顔の絵文字が返ってきた。
 アドレスと住所を教え合い、ゆっくり交流が始まる。
 三日後届いた包みには、大小の手作りマスクがぎっしり。かわいい花柄と、ネイビーやデニムのメンズ風がある。
「旦那さんや息子さんやお嫁さんにあげてね」
 メモが入っていた。家族全員分を縫ってくれたのだった。礼を言うと「趣味でたくさん作ってるから」とこちらに気を使わせない彼女らしい返事が。そうそう、こういう温かい言い方をする人だった。毎日三十分の道を一時間かけてゲラゲラ笑いながら帰ったあのころに気持ちが一挙に戻った。まさか十五年もかかるとは思わなかったが切れかけた糸は、ちゃんと縒(よ)りが戻った。

 人間関係が難しくなったとき、つい元通りにしたい、あのころの無垢な状態に戻したいとあがきがちだ。でも、人の心にはそれぞれ波がある。いまは考えられない、それどころじゃないという時期が誰にでもある。彼女に対して私がしたのは待ったことだけだ。
 私がそうであったようにHの心の隅にも十五年間私が小さく存在していたとしたら、あるいはずっといなくても、東京と聞いて私が「困っているだろうから」と思い出してくれたのなら、それだけでもとびあがるほど嬉しい。

 そのマスクは一年半後のいまも家族全員でフル活用している。息子の新居に行ったらきれいに洗って干してあり、「毎日乾いた端から通勤に使っている」とのことだった。
 ある日、自分のマスク姿を撮ってHにメールした。彼女の返信は、
「おーだいら、それ夫さん用に作ったやつ」
 どうりで大きいわけだ。爆笑の絵文字が長野に飛んだ。


<かつて> 誰からも好かれていたい。いい人と思われたい。誤解があったらすぐ解きたいともがいた。人間関係に一点でも曇りがあると気になって焦った。

いま> こじれたものは、待つほうがうまくいく。


一章 「待つ方が案外うまくいく」より「絡まっていた糸」

※本記事は『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)からの抜粋です。

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再構成/結城 歩 著者撮影/安部まゆみ

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