波乱の結婚後、雑誌『Olive』デビュー【桜井莞子さんが70歳でレストランを開くまでvol.3】
クウネル2023年7月号に登場の桜井莞子さん。70歳で青山に家庭料理店『のみやパロル』をオープンさせたかっこいいマチュア世代です。広告会社で働いたのち、料理の仕事をするようになり雑誌『Olive』の料理コーナーを担当し……。ワクワクに満ちた人生を振り返った著書『79歳、食べて飲んで笑って』(産業編集センター)が話題です。
70代で青山に「パロル」を作るまでの軌跡を『79歳、食べて飲んで笑って』からご紹介します。画家でグラフィックデザイナーの宇野亜喜良さんとお付き合いを始めた第2回に続き、第3回目は、イラストレーターの黒田征太郎さんと結婚し、そして雑誌『Olive』での連載が始まるまでのお話。
ほろ苦い思い出ハリハリ鍋
宇野さんとお別れした後、私は「パロル」の前身となるような店をオープンします。バロンドールのシェフ千葉さんから手解きを受け、真似事のように料理を始めました。エメラルドピラフ、パスタ、スープ、軽食を出してお酒も出すというお店でしたが、その修行中、小指を包丁で切ってしまい、爪を剥がして手術するという大事にいたってしまいます。小指の痛みは案外激しくて、切ってしまった自分も不甲斐なく、落ち込んでいるところに黒田征太郎さんが毎日のようにお見舞いに来てくれて、お付き合いが始まりました。
1969年、アメリカから帰国した黒田さんは、盟友の長友啓典さんとデザイン事務所K2を開きます。お付き合いの中で、私に熱烈なプロポーズをしてくれましたが……なんと、そこに至って黒田さんがすでに既婚者であったことが判明! 別居してはいたもののまだ離婚は成立しておらず、すったもんだの末、その年の暮れにようやく結婚。
翌年、長男を授かって妊娠中に黒田さんの実家のある大阪へ初めてのご挨拶に行くことになりました。羽田から飛行機で大阪空港まで、チケットはすでに取ってありましたけれど、肝心の黒田さんが帰って来ない。朝帰りでようやく戻ってきたと思ったら「ちょっと寝る」とか何とか言って服を脱いだんです。そうしたらなんとまあ、キスマークが付いているのよ。怒り心頭とはまさにこのこと、さすがの私も「大阪には行かない!」と鬼の形相。
黒田さんはオロオロして「お母さんと約束しているから、どうしても」と、とりつく島の無い私をなだめすかして何とか飛行機に乗り込みました。私はもちろん怒っているので話をするどころではなく、道中も気まずい雰囲気でなんとか実家へ。
初めてお義母さんに会ったのですが、こちらは嫌な気持ちにさせてやれという状態ですから、態度も悪い。お義母さんは初対面の私のことをツンケンしてずいぶん嫌な子だと驚かれたと思います。
ところがね、そのお義母さんが黒田さんの好物の鍋を用意して待っていてくれて、それがクジラと水菜だけを炊いたハリハリ鍋という大阪の名物だったんです。そのお鍋をいただいたら……ゲンキンなものね、とても美味しかったので顔も気持ちも綻んじゃって。
それですっかり大阪の味が好きになって、お義母さんとも仲良くなっていきました。長男海太郎が生まれた1970年は大阪万博があり、よど号ハイジャック事件や三島由紀夫の割腹自殺など、世の中が激しく揺れ動いている時でした。
思うようにいかない結婚時代
雑誌『anan』がその年に創刊され、日本独自のカルチャーが次々に花開き始めていた時代です。K2も軌道に乗り、1972年に成城に引っ越してから、私たちの家には私の実家のようにいつもお客様がいらっしゃるようになりました。
黒田さんの一番下の弟で当時カナダ在住の陶芸家黒田泰蔵さんともこの頃に出会い、生涯にわたるお付き合いが始まります。泰蔵さんは家に6ヶ月居候していた時期もあって、その頃は朝までお喋りに付き合ったり、お小遣いをあげたりと面倒をみていました。
ですが肝心の征太郎さんの女癖は直らず、結局一緒にいた間は、辛い思いばかりしていました。幼かった長男と二人だけでいるのが辛くて、年中友達を呼んでは料理をふるまって飲んで食べてと、楽しい時間を作り出そうと必死だったように思います。
黒田征太郎の妻として、雑誌などに登場することも時々ありましたが、内実は法律上の離婚はしていなくても私たち二人の関係は風前の灯という状態でしたね。だって何しろまともに帰ってこないんですから……。
ところが5年後の1975年、私は再び赤ちゃんを授かります。今度は「産みたくない」と黒田さんに意思を告げると、彼は土下座して「えみ、今度こそ僕は変わる、ちゃんとする」と泣きついてきました。それまでの辛い経験を思いながら、産みたくないだなんて恐ろしい考えが浮かんだことは否定しません。でもその時はまだ私の中にも気持ちが残っていたのでしょうね、黒田さんの言葉を信じる、信じようと思いました。
果たして生まれてきた子は女の子でした。海音子(みおこ)と名付けた娘は、今ではパロルの後継者として私を支え、がんばってくれています。彼女を産んで心から良かった。でも私に土下座して悔い改めることを誓った黒田さんはその後も変わる様子はなく、私は落胆のうちに気持ちが冷めていくのを感じていました。そこから少しずつ、私は離婚の意思を固めて自立するために動いていくことになります。
80年代の幕開け、東京はファッショナブルで世界的な都市として名を馳せつつありました。1982年には雑誌『Olive』が創刊。当時よく家にご飯を食べにきていたマガジンハウスの編集長椎根和さんからこの『Olive』の料理ページを担当してくれないかと誘われたことが、私が料理研究家として世の中に出る最初のきっかけになりました。
詳しくは発売中の本書を
『79歳、食べて飲んで笑って 〜人生で大切なことは、みんな料理に教わった』(産業編集センター)
年齢を重ねるって楽しい! 70代でお店をオープン、伊豆と青山で2拠点生活。食通に愛される青山のごはんや・のみや「パロル」店主・桜井莞子さんによる、“好き”であふれた日々を送るための処方箋。桜井さんが自分を形づくってきた人や物事、さまざまな料理やお酒について語る1冊です。桜井さんの思い出の料理10品のレシピも公開。
『79歳、食べて飲んで笑って 〜人生で大切なことは、みんな料理に教わった』(産業編集センター)
クウネルのYouTubeに桜井さん登場!
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〈撮影/田川友彦 聞き手/田邊詩野(子鹿社)〉
※本記事は『79歳、食べて飲んで笑って 〜人生で大切なことは、みんな料理に教わった』(産業編集センター)からの抜粋です。