もうすぐ母の13回忌。私の心に住み続ける母の言葉。子供時代の思い出とともに振り返ってみます

〈クウネル・サロン〉プレミアムメンバー、整理収納アドバイザーでエッセイストの青木美詠子さんのエッセイ。この夏、お母様の13回忌で帰省予定だという青木さん。お母様との思い出を子供時代から振り返ります。
幸せな子供時代、母の記憶
この夏、母の13回忌に帰郷します。最後は認知症で83歳で亡くなりましたが、若い頃の母の思い出を書いておけたらと思います。
私は山口県の田舎で18年育ちました。丘の上に建つ家で、庭ではドッジボールみたいな球遊びもやっていました。下の畑にボールが落ちたら、丘を一緒にころがり落ちて拾うような野生児。のどかで幸せな子供時代でした。
坂の途中には栗の木が(のちに伐採)。真横に伸びた枝を鉄棒がわりに、飛行機飛びもしていました。夏休み、その木の下にゴザをひき、基地みたいにしているところに、母がカルピスを持ってきてくれたりも。
庭では何かの棒を使って野球の真似事もし、母は「お母さん、なんぼでもホームラン打つよ」と笑っていました(球場でという意味。そんなわけないんですが)。
広い畳の部屋では小学低学年の私と弟(姉はもう中学生)が順に飛びかかり、母が交互に投げ飛ばす相撲のような遊びもしていました。途中でおかしくなり、ふたりで笑いながら飛びかかって、投げ飛ばされて。母も体力ありましたね。父はそんなに子供と遊んだりしない、昭和の男という感じだったので、母が何事も引き受けていたのでしょう。
貝堀りが大好きで、車で待つ父(貝堀り嫌い)が呼びにくるのを見ないよう、海の方角を向き、どんどん掘っていたのも覚えています。翌日からの味噌汁は全部あさりでした。

その丘の上の実家。途中で引越し、ここは造成されました(引越前にモノクロで撮影)。

庭でゴム飛びする私と弟。飛んでます。
広い丘の草は全部、暑い夏に母が鎌で刈っていました。その間、家事は手伝いましたが、大変そうだったのに、子供達も手伝えばよかったと大人になってから、よく思いました。子供って「これをして」と言われないと無意識ですね。落ち葉はみんなで集め、焼き芋もしていたのに。
母のかわいいところで思い出すのは、私が「え。前はこう言うてたよ」とか矛盾を指摘すると、「いけんねえ(自分が悪かったの意)」と素直に笑っていたこと。あの素直さは見習いたいです。あの笑顔もまた見たいです。
「勉強しろ」と言われたことは一度もなく、夜更けまで居間で勉強し、うたたねしていると、母が起きてきて「もう寝んさい」とよく怒られました。
大学は推薦が決まったため、東京へ。四年制の私立で東京に下宿なんて、金銭的にも大変だったと思います(父は教師で母は専業主婦。子供は3人)。風呂なしの四畳半で、私もバイトしましたが仕送りが頼りでした。母は自分のための贅沢など、いっさいしなかったと思います。

家の裏で。働き者の母。

坂の途中の私。珍しく雪が降り、撮ったのでしょう。
私を支える母がくれた言葉たち
その後、私は東京で広告会社に就職。数年後に父は他界し、弟も大学へ。母はひとり暮らしになりました。
20代後半、私は体の不調が積み重なって1カ月休職(それを2回)。つらかった頃、母が電話で「いつでも帰ってきんさい。あんたひとりくらい、なんぼでも私が養うちゃげるよ(あんたは方言)」と言ってくれ、電話を切ってから、ひとりで泣きました(体は幸い、冷えとりに出会って回復)。
その休職中にサリンの事件が起こり、「外に出ちゃいけんよ」と電話がかかってきたのも覚えています(私の部屋は都心ではなかったけど)。
そして何の時か忘れましたが、電話で「あんたは、ええ子なんじゃけ」と言ってくれたことがあります。私に、何かつらいことがあった時。今もずっとその言葉は心に住み、私を支えています。
晩年、母が認知症になり、介護で帰郷した時はいろいろ大変でしたが、今ではどれも思い出となりました。ヘルパーさんに引き継ぎ、玄関で「じゃあ(東京に)帰るね」と言った時、泣いていた顔も忘れられません。
思い出はどんなものも尊く、言葉は私を支えています。誰かに言葉をかけるというのは、そんな重みがあることなのですね。
だから親に、夫に、お子さんに。そして友達や同僚に。ちゃんと素直にほめたり、感謝の気持ちを伝えてあげてください。もっと後になってからでは言えないこともあるんです。
aokimi’s memo
SHARE
この記事の
プレミアムメンバー

青木美詠子
1963年生まれ。整理収納アドバイザーの資格をもち、不定期にさまざまな自宅セミナーを開催。個人へのお片付けサービスも行う。著書に『あおきみさんち、家を買う。』(マイナビ出版)など。長年実践する「冷えとり」に関する著書も。
https://www.aokimi.com/
Instagram:@aokimieko1616