作家・小川糸さんの母の思い出。かつては緊張関係にあり反発もしたけれど、 母がいたからこそ作家に

作家・小川糸さん

子どもの頃の娘にとってはいちばん身近な大人でもあり、成長してからも様々な影響を娘にもたらす母親。そんな母との関係や学んだこと、母への思いなどを作家・小川糸さんに伺いました。

母の考え、価値観になじめなかった。

「私は物心がついたころから反抗期だったのだと思います。家の中で生きていくことがつらくて、息苦しかったのです」

その温かい小説作品で多くの読者の支持を得ている小川糸さんは、幼いころから母親との緊張関係の中で育ちました。世間的に見ればよい母とみられたであろう人でしたが、強権的なところが多く、「勉強していい学校へ行けば幸せになれる」という価値観を子どもに強いた人でした。感情が昂ると手をあげることも。

「子どものころ、母からのクリスマスプレゼントがのし袋に入った1万円だったんです。千円でもいいから、なにかプレゼントが欲しかったし、お金よりも思い出のほうが大事でしょ、と子ども心にも思って」

作家・小川糸さん

日記を書いて学校へ持っていき、先生に見てもらうのが課題だった小学校2年生のとき。家の中の葛藤はよその人に言ってはいけないことだと思った小川さんは、架空のお話や詩を書いて提出しました。先生が読んで書いてくれるコメントが楽しみで、日記の中では架空の物語をつむいで、心を自由に羽ばたかせることができたのです。「それが私の喜び、今につながる書くことの原点になりました。母との葛藤がなければ、私はものを書く人間にはならなかったと思います」

小川さんは大学入学を機に故郷・山形を離れ、母とは違う大人との幸福な出会いもありました。ふたりはずっと距離を置いて歳月は流れましたが、その関係が劇的に変わったのは、母が病いを得て入院しているのを知ったとき。末期のがんでした。

母を初めて、愛しいと思った瞬間。

『体が弱り、少し惚けた母親を見て、私は初めて、母を愛しいと感じた。愛しくて、愛しくて、ぎゅっとこの腕に抱きしめたくなった』(小川さんのエッセイ集『針と糸』より)。子どものときを思い出して、小川さんは病床の母の頬に自分の頬をくっつけてみました。『初めて触れる母の頬は、柔らかく、つきたてのお餅のようだった。私が母の愛情を欲していたように、母もまた、私の愛情を欲していたのだ。』(前掲書)

山形の病院から東京へ帰る娘に母は「これで新幹線で帰りなさい」と、引き出しにあった小銭を集めて渡してくれました。運賃には全然足りない金額だったけれど、「母にとって、お金は本当に大事なものだったんだ。その大事なものを子どものころ、クリスマスプレゼントにくれただけだったんだ」と気づいたと小川さん。母の愛情の一端に触れた瞬間でした。

作家・小川糸さん

窓辺の小さな仏像に毎日水を供え、亡き父や母、先祖に祈りを捧げる。

いま小川さんは都心を離れ、長野県の山荘で愛犬と共に暮らしています。自然豊かな環境で、草花や野菜を育てることが大きな喜びです。

「母は『緑の指』を持っていて、草花を育てることがとても上手。日が暮れるまで庭で土いじりをしていました。長野に移って、私も植物への興味がわいて、土と戯れていると時間を忘れて没頭してしまいます。母も同じ気持ちで植物を触って、その時だけは厳しい現実を忘れていたんだろうなあと思います」庭仕事を通して、娘と亡き母は気持ちを通い合わせているのかもしれません。

作家・小川糸さん
作家・小川糸さん

植物を育てることが上手だった母。小川さんも土いじりをしていると時を忘れる。昔、母が送ってくれた米などの荷物の上に、庭の花で作った花束が添えられていたことが印象深いそう。

母が亡くなって、やっとへその緒が切れた、本当に自由になれた、と感じた小川さん。子どもは親を選んで生まれてくるという考え方があるけれど、自分は絶対に母を選んでいないと思っていました。でも「実は私が母を選んじゃったのかなと思います。私は意外にもチャレンジャーだったのかもしれないです」。そんな母娘の関係が、読者の心をつかんで離さない小川さんの作品世界の原動力になっていたのです。

「いまだに物語の多くの源泉を与えてくれている母には感謝していますし、母は亡くなって、私の身体の中に戻ってきたと感じています。死は終わりではなくて、私が生きている間は、私の中で母は生きているんだ、と思っています」

PROFILE

作家・小川糸さん

小川糸/おがわ・いと

作家 52歳

2008年に『食堂かたつむり』(ポプラ社)で小説家デビュー。著書に『つるかめ助産院』(集英社)、『ツバキ文具店』(幻冬舎)、『小鳥とリムジン』(ポプラ社)など。

『クウネル』2025年11月号掲載 写真/柳原久子、取材・文/船山直子、

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